ひとくち講話「入野忠芳さんが遺したもの」
ひとくち講話のお話を事務局の方からいただきまして、実際に何をしゃべって何を報告したら皆さんにご理解いただけるかずっと気になっていました。
いろいろ悩んだ結果、今日お集まりの皆さんでご存じない方はいないと思います、校友の故入野忠芳さんとの交流や想い出を話させていただこうと思います。

入野忠芳さんとの出会い
教師時代の事です。豊栄(現在の東広島市豊栄町)に赴任が決まりまして、豊栄とか福富とか一度も訪れた事もないところで、当時の私にとっては静かで住みやすい土地だろうなというくらいの印象しかありませんでした。
不安な気持ちはありましたが、この辞令をきちんと受け止めて地域の方や生徒さん、先生方にしっかりと鍛えてもらおうと言う心づもりで任地に向かいました。
この、豊栄中学校に赴任した事が入野さんとの交流のはじまりです。入野さんとは武蔵美同窓という事で、MUSABI展でお会いするなど、それまでにも面識はありました。それで、いろいろ相談にのってくださいねと軽い気持ちでお願いしたら、ちょっと遊びに来るような感じじゃなくて、もうのべつまくなしに来られるようになって(笑)
入野さんは、私の授業が何曜日の何時間目にあるのか大体ご存じだったんです。私があらかじめ予定をお伝えしていましたから。そうでもしないと、授業中に突然訪れたりされるものですから。(笑)
豊栄の板鍋山
入野さんが初めて私の中学校を訪ねてこられた時に、立ち話をしてたんです。それにしても、入野さんは豊栄が気に入ったんですねと聞いたら「豊栄が気に入ったんじゃ無くて、ぼくは板鍋山に山がけに行ってるんだ」と言われるんです。板鍋山に惚れたんですね。入野さん曰く、「あの山はすごい山なんだ。僕の絵のモチーフに、画題にびったりなんだ」と。「板鍋山は大事にしないとダメだ。大事にしないと豊栄が滅びるぞ」とまで言われました。

それで、今からその話をするぞって言われるんです。教室には生徒が待っているんですよ。ですから、それじゃ授業が終わるまで宿直室で休んでいてくださいとお願いしたんです。「宿直室にあるものは何でも自由に使ってください。飲み物も食べ物も自由に飲み食いして、何なら横になっていただいても構わないですから。」とお伝えました。「そんなおおぼら吹いて大丈夫か」と言われましたが、「豊栄中学の教職員は寛大だから誰も気にしないです!」と私は言い切ったんです。
それで、授業が終わってから宿直室に行ってみると、入野さんが大いびきをかいて寝てるんです。参りました。起こすのも大変な状態です。(笑)
しばらくして、物音に気づかれたのか突然起きあがり、大きく開いた目でまっすぐ僕を見て「今から一杯やろう」と言われたんです。「授業が終わったからいいですよ。」と私はこたえました。
最初、入野さんは宿直室で飲むのは止めた方がいいなと言われていたのですが、くつろぐ程度にここで軽く飲もうと言う流れになりました。
代表作『裂罅』
「酒を酌み交わす中で、出たのが彼の代表作の『裂罅(れっか)』に通じる話です。彼はあの『裂罅』で、自分のポジションを固めたと思っています。
板鍋山がモチーフと彼は言いますが、それは山じゃないんです。地球を思いきり引き伸ばしたようなカタチで描くんです。彼はいつもそればかり描いていました。それくらいに、豊栄の板鍋山は私たち、いや私だけかも知れませんが平凡な生き方をしている人間には見抜けないほどの強い力を持った山なんだと思いました。
ある時、入野さんが制作途中の『裂罅』がどこまでできているか見に来るかって言うので、牛田まで見に行きました。その作品は本当に凄かったんです。勢いと、怖さと愛情。もう本当に人間の生き様、全てそれに乗っかってるような様子で描かれている。その意欲、表現力に本当に感服しました。
「入野、よくやってくれた。この絵がどう変化していくのか、どのようなモチーフに変わっていくか期待してるぞ!」と言う私の言葉に「ああ、期待しててくれ、俺はやるぞ!」と、会うたびいつもいつも同じようなやり取りをしていました。
豊栄の町、山並みもすてたもんじゃない。それを見抜けない私の気持ち、心が、目が単純なんだなと。それを気づかせてくれる、刺激をくれる。私は感謝の気持ちを持って幾度も彼のところに通いました。
彼は毎年正月に僕の所に絵を送ってくれていました。四号くらいの絵、時には六号。その絵が、もうどうにもならないくらいリアルなんです。具象でも何でもない、むしろ抽象といった方がいいかも知れない。でも、とことんリアルな絵なんです。まるで「茶木、おまえは本当に地に足がついた生き方をしているのか」と問わんばかりの絵です。そんな風に私は彼の絵をみていました。入野さんは、彼の幼少期の思い出からだんだん成長していく、その過程を細かく細かく話してくれるんです。
電車での事故もさることながら、自分はこれこれこう言う生活をして、こんなふうなモチーフで描きだして『裂罅』で勝負しようと思っている事。今のところは『裂罅』しかないけどもし自分の生き方に、ものの見方に変化をつけてくれるものがあったら、茶木、何でも俺に言ってくれって。そんな付き合いをしていました。
入野さんが遺した足跡
ひとつの詩があります
古道につもる木のはを
かきわけて 天照す神の
あしあとをみむ
『二宮翁道歌解』より
私が思いますに、入野氏はまさにしっかりとした足跡を残して逝ったと。
積もった木の葉をかきわけてみると、出てくるのは入野さん。入野さんはかきわけて、かきわけて、歩いてきた道筋をしっかりとかき分け、今から歩くであろう道筋をどういった気持ちでまとめて振り返り、絵に、あるいは人に親しんでいたのだろうか。
そんな事を教えてくれたんじゃなかろうかと私は捉えています。彼が一生懸命歩んできた足跡をしっかり見させていただきながら、また考えさせていただきながら毎日を生きています。
素晴らしい人達との出会い
私は素晴らしい人と出会いました。いわゆる武蔵美で学んだ人たち。本当に素晴らしい日々。素晴らしい、すごいと言う言葉しかないです。
本日私は皆様と出会う機会を待たせていただきました。校友のみなさんそれぞれの想い、考え方を聞けるすばらしい機会です。
私はこの出会いを大切にしてもう少し生きたいな、生かしてもらいたいなと思っているんです。私は百歳に近いと言えば嘘になりますが、90近くになりました。あとどのくらい寿命があるかわかりませんが、その長さよりも、瞬間瞬間をどのように生きるか、皆さんから教えていただき見させていただくかと言うところへ視線をあてながらこの会に出向いてきて、皆さんから刺激を受けたい。かように思っています。
私は今、田中大学に通っています。家の周りの田んぼの事です。農作業が楽しいんですよね。知り合いにとれた米をタダであげるんです。去年とは違う肥料にしたから今年はどれだけ収穫が増えるかとか。肥料が変わったから、味はどうかなと言う気持ちはあるんですが、おいしかったとか一度も言われた事が無いんです。
それでも、感想でもアドバイスでもいただけるとものすごく励みになるんです、本当においしくなるんです。何か言っていただけるのが嬉しいんですよね。おいしくないかもしれなけれど、それをおいしくするのが校友の皆さんとの出会いだと考えております。そのようなわけで、校友の皆様今後ともよろしくご指導お願いします。

入野忠芳1939–2013
5歳の時、路面電車との接触事故で左手を切断し、自宅で被爆。1963年に武蔵野美術学校を卒業。帰郷後、後進を育てながら画業に励んだ。自らの苦難を昇華した作品『裂罅(れっか)』で第11回現代日本美術展大賞を受賞。