山本美次 昭和45年(1970)学油

令和7年10月、洋画家山本美次さんのご自宅・アトリエに伺っています

生まれたのは昭和二十四年。戦争が終わって四年ですね。実の父は小学校二年生の時に亡くなったんです。復員してからずっと調子が悪いままで、鉄道病院で亡くなったんです。
父が入院している間、妹と一緒に伯父の家に預けられました。父の死後、三年生の時にお袋の実家に帰ってきました。今住んでいるこの家です。

山本美次(1949年広島県廿日市市生まれ)

幼少期に家族を亡くし絵画に没頭。武蔵野美術大学で油絵を学び、1972年に渡仏。エコール・ド・ルーヴルやパリ国立高等美術学校で古典技法や銅版画を研鑽し、帰国後は広島を拠点に個展・グループ展を重ね、ヨーロッパでの模写研修も続けつつ独自の画境を深めた。


昔から絵はお好きだったんですか。
宮島での写生大会があって、毎年賞状をもらっていて、母が大切にとってくれているから絵は好きだったんですね。でも、本当に好きになったのは中学に入って、吉野先生と出会ってからです。


実は五年生の時の健康診断で、お医者さんから心臓弁膜症だと言われ、それから病院通いが始まり、検査とかあちこち連れて行かれ、体操とか全部禁止されたんです。とにかく安静にして過ごしてくださいと言われました。その上、母がどこかのお医者さんから「二十歳くらいまでしか生きられないだろう」と言われたようで、影で泣いていました。日赤病院の屋上からボーと街を眺めた記憶があります。

母が爆心地から一キロ圏内で被爆しているので、原爆の影響かもと思いました。そのせいか、授業を聞いていても全然頭に入らなくて、毎日窓の外ばかり眺めていました。

そうしていると悪い友だちが寄ってくるんです。悪童というよりも不良少年たちで、おまわりさんに補導された時に、裸電球が吊されている鉄格子のある留置場を見せられて、「今度悪さしたらここに入れてやる」って脅されました。


それが変わったのは、中学で美術クラブに入ってからです。顧問の吉野先生との出会いがきっかけです。美術クラブが楽しくて、悪い友だちと自然に付き合いがなくなりました。

そう、母がとても感謝していました。
私の心臓の病気が見つかった十歳の頃、母が山本の父と再婚しました。後になって気付くような自分ですが、山本の父は余命を言われている自分をその頃から理解し、心から支えてくれていました。
後年知ったことですが、僕が武蔵美への進学を思い始めた頃、父は吉野先生にも相談に行き、「息子がやりたいことをやらせたい」と親戚を説得してくれたそうです。不運にも六十代で事故のため早世しましたが、いつも家族中で心配しながら静かに見守ってくれていました。妻との出会いも山本の父の紹介でしたし、自分が日本古武道を学び始めたきっかけも父の影響からです。この師・梅本先生からも生涯にわたり多くのことを学ばせていただきました。合気道の植芝盛平氏がヨーロッパでブームになっていた時期がありまして、スペインの友人の日本文化学校へ師を招き、居合を伝えていただきたいと思っていましたが、実現できなかったことをとても残念に思っています。
吉野先生は美術教師で、武蔵美を卒業して先生になったばかりでした。学校のすぐ裏の教員住宅に住んでいて、絵も熱心に教えるだけじゃなくて、京都にミロのビーナスやエジプト展を見に行ったり、いろいろな展覧会等に連れて行ってくれるんです。
中二になると僕は部長を任されました。国泰寺中学で行われた中学校美術教育の全国大会で公開授業に駆り出されたり、県庁で美術クラブの展覧会をやったりして、新聞にも大きく取り上げられて部員がどんどん増えていきました。部活の中で吉野先生が武蔵美の話をたくさんしてくれるんですが、お金がなくて屋根裏に住んでたとか、先生が言われた言葉は僕の中にたくさんインプットされているんです。「自分が描いた絵を簡単に人にあげちゃいけないよ。タダでもらった絵は大切にしてもらえない」とか。僕は今でもその言葉を守っています。後年先生にそのことを話したら、「そんなこと言ったかな」と(笑)。

中学卒業後に進んだ山陽高校は美術部がなくて、僕たちが美術部をつくったんです。吉野先生の影響が大きく、美大に入るなら武蔵美に行きたいって思っていました。

左から吉野 誠先生、柏木活志先生、山本美次さん

吉野先生とみんなで立体彫塑をいろいろ制作していて、その展覧会なんかもやってたんです。それで受験は彫刻で臨みました。でも、彫刻やる人って体つきとか迫力とかすごいでしょ。僕は二十歳くらいまで生きられない宣言をされていて、まわりの受験生に画力・学力以前に気迫で負けた感じで落ちました(笑)。
それで、短大ならまだ受験に間に合うということで、無事短大の油に合格することができました。当時は団塊の世代、七〇年安保の時代で、僕も何も知らないまま学生運動の影響を受け、学校をみんなで占拠したんです。ロックアウトですね。短大は女の子ばかりでしたけど、みんなで何日か学内に閉じこもったんです。
当時、東大の安田講堂には若手の先鋭第四機動隊が配備されたんですが、武蔵美には立川の第六機動隊が配備され、こちらの方はおじさんたちが中心の隊だったんです。校門のところで、女の子とスクラムを組んで「帰れー帰れー」って叫んでたんですが、ついに突入って時がきて、みんなで離れないように構えてたんですけど、護身術のようなものだと思うんですが、機動隊の人が指先でちょっと触れるだけであっという間にみんなばらけちゃって、すぐに解散させられてしまいました。学生の中には逆にロックアウト破りもいて、アトリエでモデルさんを一生懸命描いてるんです。それで、「おれは一体何をやってるんだろう」って気持ちになって目が覚めました。
短大二年の真ん中くらいに四年制への編入試験があり、数名が受かった後、どの先生の教室に入るかということになって、あみだで決めることになりました。麻生三郎という人気の先生がおられて、無事に麻生先生の教室に入ることができたのですが、僕を含め全員が麻生先生のところに入りたいんです。それで、あみだを描いている筆を目で追って頭の中にたたき込み、普段では考えられないくらいの集中力で、あみだの線が頭の中で完全に見えました。
先生は当時、三軒茶屋のリンゴの木箱を積んだような家に住まれていましたが、先生のアトリエはすごい。作品のモチーフが獣道みたいに散らばっていて、ストーブのまわりに仲間で作品を持ち寄って、みんなでいろんな話をするんです。
四年になってしばらくした時に、ふと思いました。今は先生が作品を見てくれて、友だちや仲間がいて楽しくやっているけど、自分ひとりになった時にどうなるんだろうかと。
先生の作品はすごい。戦争の中を生きてきてるわけですからね。みんな憧れてる。本当に素晴らしいんです。でも、僕は先生の作品をつくるわけじゃなくて、自分の作品をつくる。先生は作品をつくるのに自分の体をカンナで削るように描いていると仰ってたんです。それくらい覚悟がすごくて、僕には無理だし、そんなの嫌だって思いましたよ(笑)。
その頃僕は、作品づくりのためにいろいろな先生や先輩、場所を訪れていたんです。
あっちこっち、どこにでも行きましたね。桜田門の警視庁、なぜか入れてくれて。

学費と生活費は家族が出してくれましたが、留学のため学費と生活費は家族が出してくれましたが、留学のために、四年からバイトをしていました。

東京駅地下、総武線の工事です。地下三〇メートルだから気圧を上げ、中に入るときに一気に気圧を変えるから、耳から血が出てくる人もいる。東北の人や九州の出稼ぎの人たちと一緒です。足場も悪いから、慣れない人が高いところから次々落ちていくんです。給料は当時のお金で一晩一万から一万二千円ぐらい。悪くなかったです。危険だし、人手も足りない。それで、給料がもっと良い仕事の話が入ってくるんです。


その頃、地方で働かないかという誘いがあって、友だちを誘って一緒に行ったんです。流れ流れて堺まで、まわりが鉄条網で囲まれた宿舎で、そこからバスで現場に向かうんです。釜ヶ崎の仕事でした。街の中で人が寝てるのかと思ったら、そのまま死んでいたりして。ある日、友だちが一斗缶を運んでいる姿を見たら、体が変なかたちにゆがんでる。親方に腰が痛いから仕事をやめさせてくれって言っても聞いてくれない。何度もねばって、交換条件として代わりの人足を連れてきたら辞めさせてやるって言われたんです。それで、大阪芸大の前で「給料のいいバイトがあるよ」って勧誘して、代わりのバイトを連れてきて、ようやく友だちの解放に成功しました。周りからは「山本は皆と、飲む、打つ、買うに行かないし、何が楽しくて生きてるんだ」と言われましたが、そのまま最後まで続けました。いろいろありましたが、案外楽しかったです。

従姉妹が広大の医学部に来てたお医者さんと結婚して、その先生が枚方の松下病院の先生になったんです。学会でパリに来られた時に心臓病のことを話したら、病院に最先端の検査機器があるって言われて、1975年に一時帰国した時に診てもらったんです。そうしたら心臓の壁に穴があるのは確かだけど、すぐ生死にかかわるような状態じゃない。「結婚して子どもも持てるよ」と言われて、頭の上がスコーンと抜けました。

全額自費です。奨学制度とかあったかどうかも分からないし、自分には無縁だと思っていましたから。

それはないです。描くことのみの毎日です。渡仏は一番安い山下新日本汽船というソ連船で横浜からナホトカ港に到着。ところが、列車でモスクワからフランスにたどり着く前にワルシャワで迷子になってしまったんです。

北欧の3月。あの頃のワルシャワは戦後の瓦礫の山で、駅もない感じ。みんなが汽車を降りて見に行くから、それにつられて降りて行ったんです。しばらくぶらぶらして戻ってみると、四号車から後は停まってるんですが、自分が乗ってたはずの一から三号車の姿がない。

二人の荷物を乗せたままどこかに消えてしまったんです。汽車の窓から知らない日本人が『5カ国語ガイド』を投げてくれて、それを持って駅の事務所に行き、身振り手振りで説明したんです。

荷物はもう戻ってこないが、ワルシャワの街にある四か所の操車場を教えてくれました。寒い冬空の下で両替の列に友だちと並び、真っ暗な中タクシーで操車場に着きました。ものすごく広大な操車場です。この中からどうやって荷物を見つけるんだって途方にくれたんですが、しばらく歩いてると自分の荷物が客車の窓からのぞいてるのが見えたんです! 

本当に幸運でした。その晩は操車場の宿舎に泊めてもらって、「おまえはアメリカ人か? 怪しいやつだ」とか言われながら、お土産に持っていた中国醸造のお酒を飲み交わしました。


どこに行くんだって言われ、ウィーン経由のパリの寝台車の券を買ってたからウィーンだって言うと、「それなら明日の便がある」って言われて、本当は一等車の寝台列車でパリに行く予定が、丸二日間鈍行列車に乗るはめに……

でも車窓のアルプスの景色は最高でしたね。いろいろな人に助けられながらパリになんとか到着しました。
パリでは郊外に住んでいる日本人宅の屋根裏部屋を借りました。冬のパリはすごく寒くて、のみの市で寝袋と毛布を調達し、ブタンガスで寒さをしのぎながらルーブルに通いました。

パリに行けば何とかなるって思って、何も考えずに準備もなくひとまずパリに行ったんです。(一同笑)


ルーブルではミレーの「農夫」を模写をはじめました。ミレーは日本では人気があったけど、ルーブルでは三階の人があまり来ないようなところに飾ってあったんです。

模写はやってもやっても終わりがなくて、出口が見えない。偶然を待ち続けている。僕の近くでミレーの「晩鐘」を模写している日本人がいて、その方が日本での模写の重鎮・高田力蔵先生でした。

高田先生は藝大で寺田春弌氏と油絵の具の組成や西洋絵画技法の教室を立ち上げられていた方でした。美術館のギャラリアンが「ムッシュ高田、日本の青年がミレーの前で七転八倒してるから見てやって」と言ってくれたんです。

高田先生からは、ルーブルでの作品の模写を通して伝統的な絵画技法を教わり始めました。

その後、高田先生が「フランスは学生になった方が絵の勉強には有利だ」と言われ、パリ高等国立美術学校に入学することができたんです。学生になるといろいろなアトリエに自由に出入りできるんですが、僕は古典技法、銅版画、デッサンのアトリエで勉強していました。

でも、だんだん気がついてくるわけなんです。何だかんだといっても、油絵の本質はこの地で育ったもの。油絵は彼らにとって血なんです。

どんなにうまく真似ても、日本人の自分はかなわない。色の見え方ひとつでも、日本人の僕と彼らの感じ方は随分違う。空間の捉え方も意識も違う。

彼らと同じようなことをやっていたら、数年で追い抜かれていくとわかったんです。油絵に向かう自分の方向性に気づきました。


他にはエッチング教室に行ってたんですけど、ものすごく贅沢な教室でモデルさんが使い放題だったんです。

モデルの中に、ダンスやパントマイムを勉強しにパリに来ていた青年がいました。彼はロシア人で僕と同じような歳。彼がポーズをとるとすごく決まるんです。興奮するんで。僕が筆をとると、「描け、続けろ」って僕のためだけにポーズをとってくれるんです。

今の僕の作品に道化が多いのは彼の影響が大いにあります。お互いフランス語ができない時でしたから、名前も聞かないままで残念に思います。

結婚はできると思ってもなかったし、する気もなかったんですが、1978年の終わり日本に帰ってきたときに、しばらく仕事をする場所がなくて、山本の父が小さな電気工事の会社をやっていて、僕はその二階で絵を描いていたんです。その近くに彼女のお母さんがカフェレストランを開いていて、短大を出た彼女が手伝いをしてたんです。父と昼ご飯を食べに行ったりしているうちに好意を持つようになりました。

彼がダ・ヴィンチの模写を持って帰っていて、その絵が素晴らしかったんです。私は特別に絵に興味を持つようなタイプじゃなかったんですけど、その絵に魅了されたんです。それに彼はすごく自然体の人で、人前でかっこつけることもなくて謙虚な性格でしたので、そこに惹かれました。
絵描きさんと結婚してどうやって食べていくのって、みんなから反対されましたね。父も大反対でした。私は楽天的であまり気にしませんでした。その後のそごうの個展も成功して、それならまあ父も「結婚を許そう」ということになりました。

結婚してからヨーロッパの知り合いが部屋を使っていいと言ってくれて、ふたりで一年ちょっと滞在しましたが、その期間、僕がやりたいこと、憧れてることを彼女に見せて歩いたんです。若いからものすごく大変な旅になってしまって、帰国する日に空港で倒れてしまったんです。気がついたら警察の車で病院に運ばれ、二人が乗るはずだった飛行機が離陸してるのが見えて、「ああ、彼女は先に帰っちゃったんだ」と思った。でも、それは僕の思い過ごしで、彼女はフランス語もあまりしゃべれないのに大家さんに「もう少し泊めてくれ」と交渉したり、帰国の段取りをひとりでしてくれたりと、ものすごく頼りになりました。
帰国後も日本とヨーロッパを何度も行き来しました。1982年に市川に家を借りて、十五年くらい住んでいました。最初の頃はホコリひとつないような、アトリエと外界を遮断するようなものすごくストイックな制作でしたが、子どもが一歳のとき、制作途中の絵にいたずら描きをしたのをきっかけに、何かが吹っ切れて、家族や周囲の人たちとの関わりの中での創作活動に変わっていきました。うちの子どもが小学校一年のときに、お父さんの仕事という授業で「うちのお父さんは毎日お絵かきして、お昼ご飯の後はお昼寝して、時々銀座にお仕事に行きます」って話したらしくて。(笑)
老齢の母のことも気になったので、1996年にこの家に帰ってきました。

山本さんのアトリエ

いま振り返ると、本当に多くの方にお世話になったと思います。去年、泉美術館で自分を振り返る展覧会を行っていただいたんです。その展のなかではじめて自分を振り返り、自分がここまで来れたのは素晴らしい方との出会い、助けがあったからだって。前へ前への毎日で五十年やってきて、ただで住まわせてもらったり、泊めてもらったり。毎年どこかで個展をやらせてもらってきましたが、そのたびにいろいろな方と知り合って、そのつながりが拡がって。僕はいいものばかりを見たいし、知りたい。それが自分にどんどん影響してくる。これからもいろいろな方たちとのつながりを大切にしながら、その巡り会いに感謝しつつ、創作活動を続けていきたいです。(了)


新しく役員になった廿日市在住の岡本礼子さんに道案内をお願いし、校友の山本美次さん宅を訪ねました。大きな神社のすぐ近くにあるお宅は、緑と明るい日差し、清らかな空気に包まれ、とても心地よい空間でした。山本さんご夫妻に温かく迎えていただき、素晴らしい時間を過ごすことができました。この取材は本当に面白く、お話の中で文章にまとめられたのはほんの一握りです。次回は奥様から、山本さんの武勇伝などもぜひお聞きしたいと思います。
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