令和6年 ゴールデンウィーク前半、川原信子さんのオフィス兼アトリエに伺っています
まずは近況からお話しいただけますでしょうか
もう何年もグラフィックデザインの仕事をやっていましたが、業界全体が段々に弱くなってきて、仕事の量も減ってきました。これからどうしようかと思ったときに、私がもし、クライアントなら精力的に活動している有名な若い人に仕事を頼むなって思ったんです。私の場合はそう考える事で、逆に肩の荷がふっとおりました。ああ、もう仕事のやり方を切り替えようと。
今までも創作活動で個展を何度か開いていたのですが、これからは仕事を追いかけるんじゃなくて、創作活動にシフトしようと思ったんです。
今はデザインの仕事はお付合いのあるお客様から継続の仕事程度で、創作活動として個展やインテリア関連企業のアートの仕事をやっています。


子どもの頃のお話をきかせてください
私は終戦の年の三月に呉市内で生まれました。母や姉の話では、空襲で防空壕の中でも、母の背中でぐっすり寝ているような乳飲み子で、後に御飯もどんぶりいっぱいをべるとても元気な女の子だったようです。
小学校は区域の天応小学校ではなく、両城小学校の近くに姉が嫁いでいたので、何かの時に対応しやすいということで四年の㆒学期までバス通学。
㆒年生の図工の時間に先生の絵を描く授業がありました。バス通学で、まだ小さかったから、母親が付き添ってくれていました。私は女の先生の洋服を紫色に塗っていたんですよ。そうしたら、私の後ろに母がささっとやってきて、先生の服は紫じゃないわよって言うんです。
今だからわかるんですが、幼かった私はその頃とても心が不安定だったと思います。気持ち的に。その気持ちが色に表れたんですね。幼稚園にも行ってないし、小学校にあがる前は友だちもいなかったから。
小学校四年の二学期に転校したのが広島市の本川小学校。前の学校の書き方に「広島市立本川小学校」と書かれた硬筆のお手本があって本当にある学校なんだとびっくり(笑)
本川小学校って、すぐ目の前が原爆ドームなんです。体操の時間は、教室で水着に着替え先生が先頭でそのまま川で泳いでいました。背の低い私でも川底に足がつくんです。そうするとどろどろで、瓦礫が足に当たって嫌だった感触を覚えています。
夏休みには市内の川は櫓が建って大人が監視をする中、皆な泳いでいました。広島の川の夏の風物詩でした。
小学校時代、絵と習字のお稽古に妹と。私は両方ともすぐに諦めたのですが、妹は大学時代も先生に師事しお習字を続けロゴタイプの筆文字はほとんど妹との合作が多かった。
中学校は国泰寺中学。あの頃はマンモス校でひとクラスが67、8人。㆒学年で15クラスもありました。全校生徒が三千人くらい。あまりにも生徒が多いので2部授業の時も。
担任の先生と生徒の距離が凄く近かったですね。日曜日に先生のお宅にお邪魔したり、夏休みに私達を海水浴に誘ったり、いつも私達に目を向けてくださっていたと思います。
中学二年の時の担任が美術の先生で、枯れた蓮の花を描いたんです。絵が苦手だったから少し抽象的に描いたの。カタチを単純化して、少ない色でベージュからブラウンに統㆒して。そうしたらすごく褒めてくださって。
その時、私のやり方でもいいんだって、インプットされたと思います。あの時の先生の言葉がなかったら絵が下手だと思い込いこんで終わっていたと思います。
進学先を武蔵美に決めた理由は。
国泰寺高校に進学して2年生で進路を決めるじゃないですか、私は花嫁修業のための大学・就職とかじゃなくて、自分のスキルで生きていく、自立した女性になりたいと思っていました。本当は英語を使う職業に就きたかったんだけど英語の成績が振るわず、当時最先端のカタカナ職業、デザイナーになりたいと思ったんです。
武蔵美に決めた理由ですが、少し憧れていた体育の教育実習生に相談した時に、武蔵美がいいんじゃないかなと言われた事。どこかで武蔵美って聞いた事があるよっていう程度の会話だったんですけど。それと高校の美術の先生が武蔵美の前身の帝国美術大学だったことが大きな要因でした。
でも、私は美術の授業をとっていなかったんです。芸術系の科目は音楽・書道・美術の中から㆒教科選択するんですけど、日本でも有名な書家の川北春江先生だったので、一年生の時から書道をとっていました。
それならという事で、担任が美術の先生に相談して、放課後にマンツーマンで教えてくださる事になりました。
でも、デッサンなんか全くやった事がなくて、大学受験の美術研究所に通って勉強しました。それと、武蔵美の夏と冬の講習を受講。よく㆒人で受講できたと思います。
受験は美術の先生の紹介で、㆒つ上の先輩のお宅に泊めていただき、そこから受験会場へ。先輩には大変お世話になりました。
芸能を選択した理由は

わからないまま演劇部に入り、そのまま中学も続けて。高校の時は3年生の先輩に勧誘されてそのまま入部。小学校から高校までずっと演劇部でした。正直に言うと演劇とか全然好きじゃなくて、何だかだらだらやってた感じです。私にとっての演劇の思い出は男子の先輩がカッコいい人ばっかりで、授業が終わってから部室に行くのが楽しくて楽しくて(笑)
それと運動会の応援に駆り出されて三三七拍子とかやったり仮装行列をしたり……。
武蔵美時代も演劇をされてたんですか
いえ、あの頃の演劇はアングラって言うか、まったく住む世界が違う感じだったので、逆にそういう世界から距離をおくという意味で離れました。
東京と武蔵美の授業の感想などお聞かせください

東京の人からみた広島出身者は、どうしても原爆をイメージされましたね。もちろん、原爆にはあっていませんけど、広島イコール原爆と思われているのを肌で感じました。
授業については、皆さんデッサンなんかすごいじゃないですか。もうほんとにね。私はデッサンができなくてもう最低。情けなかったですね。同じ手で描いてるのになんでこんなに差があるんだろうって思いました。
最初の㆒年間は大学の寮にいました。女子寮が小平にあって、そこから吉祥寺本校や鷹の台分校に通っていました。
アメフト部のグランドがあって、そこから富士山が見えたんです。すごく感動しました。


休みの時は銀座に出て和光のウインドゥディスプレイを見てその後、松屋に行って花椿とか情報誌を集め、七階のデザインコレクションを必ずチェックするのがいつものルートでした。こうして肌で感じる感覚を大事にしたかったと思います。

それ以外の楽しみは大学サッカーの観戦。高校時代はサッカーの対校試合を国泰寺高校のグランドだけでやってたから、試合の時は、短縮授業でみんなでサッカーの応援をしてたんです。なかなか勝てないんだけど、サッカーがすごく好きになって。美大に行くような友だちでサッカーが好きな人はあまりいないので、ひとりでよく観戦に行ってましたね。

広島に帰省した時に高校の先輩、早稲田とか立教のサッカー部の先輩がチケットをくれるんです。それで中央線に乗って東都リーグが開催される小石川球場(当時の名称)まで通ってました。そうすると広島弁が聞こえるんですよ。ただ広島の人ってだけのことなんですが、それを聞くと何となく安心して通っていました。


芸能コースはどんな講義内容でしたか
まず、歌舞伎座に行って舞台装置をみて図面上に再現するんです。授業で何度も行きました。その他にウインドゥディスプレイ。凄く良かったのが上皇后美智子様のデザイナーを務められた植田いつ子先生の授業。ドレープがお得意なんです。そういうのを教わったりして、凄く勉強になりました。

舞台装置では坂井先生に熱心に指導していただきました。諸事情でお断りしましたが、坂井先生からは卒業後に地元の文化服装学院で教えてみないかとお誘いをうけた事もあります。
学祭の思い出などありますか素敵な出会いとか

授業の㆒環で「古美術研究」と言うのがあって、奈良と京都をスケッチ旅行しました。㆒週間から10日間くらい。有名なお寺をずっと廻りました。奈良の法隆寺や唐招提寺など。訪れるお寺や名所をデッサンしながら。その時はそんなに興味を持って接したわけじゃないけど、すごく楽しくて印象に残ってます。ある程度大人になってからあらためて巡った事もありますよ。でも、学生時代はデッサンが苦手だったから(笑)

学祭で先輩に誘われてダンスパーティに。でも、横田先生のようなおもしろい話は無いですよ(笑)。二年生の終わり、最後の最後ですから。いい思い出としてと言う程度です。




卒業後はどうされましたか
卒業制作のテーマを教えてください
あいまいな記憶を辿ってみると卒業制作展では、二年間の集大成で頑張って制作した想いがあります。これで最後という㆒抹の寂しさをかみしめながら制作しました。鳥をモチーフに演劇の舞台。羽ばたく鳥をイメージしてブルーのトーンで構成した記憶があり、それでその卒業制作の作品を、大学に買い上げてもらって、本当に頑張った甲斐があったなと思いました。

正直なところ東京のテンポにはとても付いていけないと思いました。夏に江ノ島にいくとすごい人で、泳ぐ場所もないし、プールは朝早くから長蛇の列。だから、夏休みはすぐにこっち(広島)に帰ってました。ただ、広島には武蔵美で学んだ事を活かせるような仕事が無いんです。
テレビ業界への就職は考えられなかったんですか
ある方の紹介で父親と㆒緒にテレビ局に行きました。でも、少し違うなという感じがしたのと、どうしてもこの業界でといいう強い意志も無かったのでお断りしました。
それで、今は無くなりましたが「商業デザインセンター」と言うのがあって、しばらくお勤めして、その後「強力広告」、ここではMOTARIZATIONというマツダの広報誌の編集を5年ばかりやりました。
職種としてはグラフィックデザイナーですね
グラフィックデザインの単元は大学では何も教わっていなかったんです。専攻も違うし2年間だけだから仕方ないですけど、写植の指定方法とかレタリングとか。社会人になってからはじめて教わりました。グラフィックデザインについてももう少し教えて欲しかったですね。
私が学生の頃はみなさん、自分が就きたい職場でアルバイトをしながら専門知識を蓄えたりいろいろされていました。そういう方は社会の経験値が高いじゃないですか。だけど、経験が全然なくて、社会にひとりで放り出されて本当に困りましたね。
当時の編集は相当ブラックな仕事ですよね

マツダの月間広報誌の編集の仕事でした。勿論マツダ車で各地をドライブした紀行文と写真の構成が特集。
当時は全くのアナログの時代。上司がラフデザインを凄いスピードでこなすんです。目の前でパッパと。
今は、それぞれがパソコンに向かってやるから、上司の仕事をみて覚えるなんて事がないでしょ。だから、私はあの頃の上司の仕事のやり方をみられた事がすごく勉強になりましたね。レイアウトの仕方ひとつにしても。
今は文字詰めとかパッとできるじゃないですか。昔は文字数を計算して、大きさや行間、文字間を決めて写植屋さんに発注して、それをカッターで切って貼っていくわけだし。
締め切り前なんかその日のうちに家に帰れませんよね


色の指定だけでも、見本帳の番号をそれぞれの箇所に書き込んで。写真はトレスコープと言う機械で拡大縮小して。コピー機もカラーじゃなくて原寸の青焼きで。すごく進歩しましたよね。本当にあっという間。当時は良くやっていたと思います。
次に「中央宣興」という広告代理店に少しいました、広島支社です。ハウジングメーカーの仕事が多かったんですけど、ここも毎週すごい量の仕事をこなさなきゃならなくて、20代後半で呼吸器系の病気になってしまったんです。当時の版下はペーバーセメントと有機溶剤を多用するので、それが原因じゃないかと思っています。
かかりつけのお医者さんに相談したら、今のような仕事を続けるのは無理だと診断されたんです。もし続けるなら事務所の机の周りに排気設備を用意してもらって、マスクを三重にしてくださいと言われました。
それで、現場での実務が難しくなってリクルートの外部スタッフとして働くことになりました。
コピーライターと組んで、カメラマンと㆒緒に取材に行って、手書きでレイアウトを起こして制作スタッフに指示していました。前職のキャリアがあったから大きな仕事もたくさん任せてもらえました。何年間かやりましたね。
その後会社を設立されたんですね
会社を設立したのは平成3年、46歳の時です。田中町の平和大通りに面している15坪の事務所を借りていました。階段を上がった二階のワンフロアで、15坪・15坪に分かれている事務所の片側を借りてたんですけど、隣の事務所が空いたので何かパーティションが欲しいなと思って探してみたんです。それで、デパートや家具屋をまわってみたんですけど、イメージするものが全く無くて。それじゃ、自分でつくるしかないと思って屏風をつくったんです。

実際に置いてみると、屏風の角度にあわせて風が回り込んですごく気持ちよかったんです。これはオフィスにも絶対合うなと確信しました。
それで50歳の時に、初めて広島市内で個展を開いたんです。
5月の個展の開催の3週間前に、母が死去。最後の追い込みの時期で、制作途中の作品もあって断念するしかないと思っていたのですが、DMの発送やご招待した方もいらしたので何とか頑張って開催する事ができました。個展がきっかけで、沢山の方々とのご縁は、私にとって大事な宝物となりました。
特に思い入れのある仕事はありますか
パリの世界食品見本市、日本ブースでのライブパフォーマンス。ニーューヨークTORAYA、パリのVENTILO PARIS本店の日本展などです。パリの人たちは筆をとってもリズミカルに運ばれるんです。その人たちの感性で、すごくきれいな線です。頭で考えるんじゃなくて、体で描いてるんですね。
割と気に入っているのが、東京ベイコート倶楽部っていう会員制のリゾートスパホテルのレストラン「時宜」の銀焼きアート作品。
最近の仕事としては「東京フォーシーズンズホテル大手町」のシーリングアート。東京オリンピックに合わせて開業するという事で漢字をイメージしたデザインは、クライアントからの要望でした。「四季」の「季」をカリグラフィーで表現。
デザインデータを足場を組んでプロジェクターで投影してぺインターがなぞって描く作業はコロナで現場に行けなくて心残りでした。

オープニングデモンストレーション


これからの活動予定など
ホスピタルアートはPDの稲田恵子さんの元、福山医療センター、米子医療センターの壁画や、久兵衛でお世話になった羽深先生から会津中央病院のアートなど。


それと、もう30年になるんですけど「手をつなぐ育成会」知的障がい者の親の会による「パレット」お絵かき教室を広島市心身障害福祉センターで開催しています。知的障がい者の彼らとお絵描きの時間を共有していますが、驚くほどの記憶力・表現力にハッとすることが多いです。少しでも彼らに達成感を味わってもらいたく毎年カレンダーを作っています。
泉美術館の理事長様から来年子どもたちと一緒の作品展をやらないかと嬉しいお言葉をいただいています。
この先どれくらい時間があるかわかりませんが根を生やした幹がかれないように……。 (了)






大手町」φ7Mシーリングアート

「時宜」銀焼きアート


京都和束茶のパッケージ他 デザイン
取材の翌日「取材の後で古い写真を探してみました」と、写真アルバムなどをわざわざ福山まで新幹線で届けてくださいました。川原さんの学生時代の写真を誌面にいっぱい載せ、みなさんと共有できた事、本当に嬉しく光栄に思います。
岡崎隆一