高木久美代 昭和38年(1963)校本洋

「絵を描くことと機を織ること」

みなさんこんにちは。

この度、「ひとくち講話」をするにあたって大変困りました。

お話することがなくて、、、。絵を描くというのはとても深いことで、言葉にするとうそになるような気がして。ですが具体的な何をしたというお話でいい、といわれていますので私が絵を描き、機を織るに至ったことをお話します。

絵を描くはじまりは、小学校2年生の時でした。

運動会の絵を描いて、「達磨さんを運ぶ絵」だったんですね。達磨さんを支えながら走っているという、それを褒められまして嬉しくて絵が好きになりました。それから田舎でしたが何かコンクールなどが有りましたら出していました。

中学校の美術の先生は斉藤武先生でした。「デッサン」というあだ名で呼ばれていていい先生でした。高校では美術部に。油絵をはじめて福井先生に教わり、原爆の後の広島でされていたアトリエに通っていました。そこで塩山さんとご一緒でした。

武蔵美では油絵科に進学、先輩には横田先生・入野先生(故)がいらっしゃいました。受験をする時、福井先生に相談しました「デザインか油絵か」を。そしたら「油絵にしときなさい。つぶしがきくから」と。それは今から思うと本当に私にあっていまして先生はやはりよく見てくださっていたんですね

3年生の時に銀座のギャラリーでグループ展を行いました。その他、学生時代は青春でいろんなことがありましたが絵は描いていました。

武蔵美を卒業する頃には、私は23歳くらいで結婚かな、と思い乍らも周りは故郷に帰ったり散りじりになる中で、慌てて就職。夜間に絵を描き乍ら光洋電子工業(デザイン室)に2年程勤めていました。が、やはり純粋芸術は無理と。それから機織りに移行しました。

わたしの油絵は描いても誰の助けにもならないのでは?と思ったからです。一方で機織りであれば、マフラーでもなんでも誰かしらに使ってもらえて、温かいと言って頂けるのでは、と。

偶々、ノルウェーから帰られたばかりの先生がいらっしゃり教わることに。父に事情を説明し授業料の仕送りをお願いをしました。ひと月目は送られてきたのですが、2ヶ月目の授業料は待てど暮らせど送られてこない。父の大英断でした。「あぁ、生きるってこういうことだ」と、初めて実感しました。どうにかやりくりし通っていたのですが、2年目に先生から「あなたは絵をお描きになるから」と席を外されることになりました。というのも、当時の教室は生徒さんは裕福な方ばかり。機織り機も糸もノルウェーからご自分で取り寄せられたりされていました。朝は「ごきげんよう」ではじまるきちっとした空気でした。「部屋の冷蔵庫には牛乳しかない」というような状況の私が行くようなところではなかったんですね。

席を外されたことを気の毒に思われた生徒さんの中には機織り機や糸の購入方法を教えて下さる方もありましたが、29歳で帰郷。帰ってきた私を母は黙っていました。父は「あんたが悪いんじゃないよ」と言葉をかけてくれました。

親というものはきっと何もかもわかっていていて黙って見てくれていたんですね、、、。

近くにある浄土真宗のお寺の偉い先生のところへ仏法のお話を聞きに行っていました。父は、そんな私を「ぼつぼついっても田はにごる」と見守っていてくれました。

そうこうしているうちに36歳に。お付き合いしていた方があり、その方との結婚を機に再度上京。3年後、主人は亡くなり、また広島に帰ってきました。その後、しばらくして父、叔父、母と看取っていくことになりました。3人とも明治生れでした。

ひとりになってから「早朝ウォーキング」を始めまして、今は夕方ですが、それに週3回の健康体操をしています。

50歳の時ーまだその頃は母がいましたが、絵を描くことに気づきがありました。お寺の朝まいりで中学生の時の国語の先生に偶然会うことがあり「絵をやめたの時の絵をみせてくれん?」と「絵が好きで学校へ行かしてもろうたんじゃろ。絵を描きんさいや。」と言われたんです。

それで「先生、絵日記を始めます」と言いましたら、「絵日記?ええじゃないの、20年位描いてみんさい。1枚ぐらいええのができるじゃろう。そしたらそれを元に油絵にするのもええじゃないの」と。その後も、先生とお会いした時はほんの束の間にこちらがハッとするような言葉を言われる。そうして、だんだんと私にも積極的に動く”気”が移ってきました。

絵日記を始めてから数年して、母は私の絵日記をとても楽しみにして下さるようになり、その時に初めて「あぁ、絵とはこういうものなのかもしれない」と気がつきました。

 今、75歳ですが、ここまでくると織ることも描くことも、草むしりもー私はよく草むしりをするんですがー、みんな「させられている」という感覚です。楽になります。また、さらに歳を重ねると違う感覚になるのかもしれませんが。

この度ひとくち講話をお話するにあたって「まとまらない生き方だったなぁ」と思い返す良い機会になりました。

ありがとうございました。

(記録/峰崎真弥)

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