本日は岡崎と積山の二名で、日本画家横田良作先生のアトリエにお邪魔してます。
積山 先生のアトリエは本当にきれいで整理されていますね。私のアトリエなんか、獣道で足でこうやってガサガサって物をよけて歩くって感じでまるで違う。(笑)
岡崎 洋画を描く人のアトリエをイメージして伺ったので、こんなにきちんと整理されてるとは思いませんでした。
そうそう。日本画は埃を嫌うからいつも清潔にしておかないと駄目なんです。油絵を描く人はそこまで気にしませんよね。天然の石を砕いてつくる絵の具だから体に悪い影響を与えません。だから日本画家は長生きするんですよ。(笑)
横田先生はどんな少年でしたか
まだ戦前でしたから、大きくなったら兵隊さんになるのが当たり前の時代で、七つボタンの予科練とか憧れてました。
生まれたのは段原中町。父は絵描きで、いつも家にいるんですよ。肖像画専門で、外交員が七人くらいいましてね、肖像画の注文にあわせて一緒に写真も持ってくるんですよ。外交員が直接写真を撮ってくることもありました。
実家の仏間に肖像額が並んでかかってますが、ああいった絵を描かれてたんですね。こどもの頃は本当の写真だと思ってました。
そう、その写真みたいな肖像画を描く仕事で、外交員から受け取った写真を写真館に行って引き伸ばしてもらって、幻灯機で大映しにして描いていました。肖像画だから本人に似ていないと駄目だし、嘘がつけないんです。
本当にそうですよね。それに素の写真のままじゃ陰影も弱いから、光の具合を描き起こすことで写真以上にリアルな肖像になりますね。
親父は一日中家で絵を描いていました。ともだちの家に行くとお父さんは仕事でいないよって言うんです。こどもの頃は、どこの父親も家にいるもんだと思っていました。(笑)
もしかすると、うちに飾ってある絵も先生のお父さんの仕事かも知れませんね。
そうですね、親父の描いた絵は二、〇〇〇枚を超えてると思います。本当にたくさん描いていましたね。
それと、おふくろの系統で山口の田布施という所に住んでいたおじさんも画家でした。それは肖像じゃなくて岩絵の具を使って描く日本画。疎開した時に近くで見せてもらって、こんな絵の描き方もあるんだってすごく印象に残りました。
話は変わりますが、戦前の生まれで、爆心地からさほど離れていない段原地区で少年時代を過ごしたという事は、もしかすると…原爆を体験されたのではないですか?
国民学校二年生(小学校二年)の夏休み、山口のおじさんのところから家に戻って数日後の天気の良い朝でした。部屋にこもって勉強するのが嫌で、母にみつからないようにこっそり家を抜け出して、近くの防火用のため池のそばでトンボを捕まえていたんです。
少し疲れて陰で休んでいた時に突然、大きなたまごの黄身のようなものが瞼に映つったんです。気がついた時は池の向こう側まで飛ばされていて、頭にガラス片が刺さって血まみれで倒れていました。大けがでしたが、陰で休んでいたので、直撃から逃れる事ができました。
家に帰ると勉強してた部屋の壁が崩れていて、母が瓦礫をどかしながら私を必死でさがしていました。そこに血まみれの僕が帰ってきて、急いで手当をしなきゃという事で、弟と一緒に乳母車に乗せられて臨時の救護所で簡単な処置を受けました。でも、その後で、母と弟がヘタってしまって、逆に僕が二人を介抱するような感じになったんです。
ふらふら歩いてる途中で救護のトラックにひっぱりあげられたあたりまでは覚えてるんですけど、その後気を失って…ほんとにすごい体験ですよね。今でもその時の傷が後頭部に残っています。ほら、このあたり。
(軽く触れる)ほんと! 大きく凹んでますね。明るくて朗らかな印象がある横田先生ですが、すごい体験をされてたんですね。
本当にすごい時代を生きてきたなって、自分でも思います。
武蔵美の日本画を専攻されたきっかけは何ですか。
日本画を選んだのは親父の影響が大きいですね。父親もおじさんも日本画家で、油絵は最初から選択肢にありませんでした。そんな環境だから、絵の世界に進みたいって言っても誰も反対しませんでした。
二浪して藝大の最終選考までは行ったんですけど結局駄目でした。武蔵美の他に多摩美と言う選択肢もありましたが、同級生が多摩美に行くって言ってたから、それなら俺は武蔵美だなと決めました。
学生生活や印象に残っている事などお聞かせください。
高円寺の予備校に通ってた浪人時代を含め、いろんな所に下宿していました。池ノ上、荻窪、吉祥寺、下北沢、小平。上京して最初にお世話になったのは、親父の弟の川崎のおじさんの家。
おじさんは大洋漁業( 現・マルハニチロ)で遠洋漁業に出てるから普段は家にいなくて、部屋が空いてるからおいでよって事になって。
向かいが大洋ホエールズの宿舎で、試合に勝った日なんかは選手が上半身肌になってみんなでワイワイ騒いでるのが見えるし、すごく楽しくて気に入ってました。
お風呂が共同で、男女に別れてるんですけど、ある日お風呂に入ってたら、壁をはさんだ女湯から何やら聞こえてくるんです。どうやら自分の事を噂してるらしい。「横田さんの奥さんって男前の若い学生さんと二人っきりで何やってるんだろう」って。(笑)
おばさんには言いませんでしたけど、早くここを出なきゃと思って、親父によそに下宿させてくれって電話しました。「親戚の家で金もかからないし何の遠慮があるんだ」って言ってましたけど、何とか説得して引っ越し費用を送ってもらいました。
学生生活はどうでしたか。
武蔵美が小平に移ったのは卒業してからで、当時は吉祥寺に校舎がありました。校風は自由奔放な感じで、それで先生方もいま考えたら超一流の先生でしたね。川崎小虎、奥村土牛、毛利武彦さん、みんないい先生でした。武蔵美の先生方を何かに例えるなら野武士ですね。
一番好きだったのは川崎小虎先生。なんでだと思いますか。「みなさんこれで甘いものでも食べてください」って、紐のついた財布から千円札を取り出してくれるんです。今なら一万円くらいですね。先生が来るたびにくれるんですよ。だから先生の授業は出席率が良かった。(笑)
一番影響を受けたのは毛利武彦さんですね。若い先生でしたけど。著名な先生方が並んだ中で順番に講評を受けるんですけど、当時は絵の具をそんなに買えなくて。しかたないから手持ちの絵の具で道を真っ赤に描いて持っていったんです。他の先生はしかめっ面でしたけど毛利さんは、「これは絵なんだから赤い道があってもいいと思うよ」、って言ってくれたんです。自分が認められたような気がしてすごく嬉しかった。
横田先生の作風に毛利先生の影響はありますか。
褒めてもらったからってわけじゃないけど、すごく影響を受けました。
どんな作風の絵だって、下手な絵だって、上手に描こうとせずに自分を出せばいいって言うのかな、そういう事に目覚めたと言うか教わった気がします。だから、わざわざ森に写生に行かなくてもアパートから見える風景でもいいんだと。先生からは本当に大切な事を教えてもらいました。
学生時代の思い出に残る出来事などありますか。
武蔵美祭りが一番楽しかったですね。吉祥寺の校舎に広い部屋があって、そこがダンス会場になるんです。女子美とか多摩美、御茶ノ水学園の女の子がいっぱいやって来ました。埃まみれの暗がりの部屋で。ダンスしながら女の子を誘って。まあ、当時は本当に良くモテました。今は全然だめですけど。(笑)
日本画科は模擬店うどん屋をやるんですけど、これが本当に良く売れて随分儲かりました。儲けたお金で友達と街に繰り出しましたよ。楽しい思い出です。
アルバイトなどはされてましたか。高度成長期の東京だからそんなに苦労はなかったんじゃないですか。
バイトは学校の紹介でいろいろやりました。バーテンダーとかいろいろ経験しておもしろかった。仕送りは少なかったですよ。親父の肖像画も徐々に写真に切り替わってきた頃ですから。今月はこれで勘弁してくれって時もありました。
大学の掲示板に、「日本画、横田良作、授業料未納に付き事務所まで」って掲示された事があって。あれには参りました。(笑)
卒業後はどうされたんですか。
当時は絵で採用する企業なんてありませんでした。デザイン科ならそう言う仕事もあるんでしょうけど、専攻が純粋な日本画でしたから。教員養成科もありましたが、学校の先生なんかなるもんかって気持ちが強かったです。
それじゃ、最初から何が何でも画家になるんだって気持ちで絵を描かれていたんですか。
いや、それほど気負ってたわけでもないですけどね。卒業後は絵を描きながら店舗改装の会社で半分アルバイトのような仕事もしていました。運転ができましたから。世田谷は特に道が難しいんですけど、僕は詳しかったからかなり重宝されました。
奥様と出会いのきっかけは何ですか。よろしければ結婚に至った経緯などお聞かせいただけますか。
28歳の時にお見合い結婚しました。ある日の事、東京の下宿に家から写真が届いたんです。会社のロビーにきれいな案内係の女性が並んだ写真で、母がその中のひとりに丸印をつけてて、すごく可愛かったんです。その日のうちに夜行に乗って広島まで飛んで帰りました。(笑)
でも、電話も何の連絡も無しで突然行ったから彼女は家にいませんでした。それで、彼女が帰宅するまで居間で待たせてもらいました。帰ってきた玄関先の彼女をひと目見た瞬間に、ああ、この人だ、この人をお嫁さんにしようって思ったんです。その場ですぐに、うち(横田)の方はOKですって事になりました。
お母さんはどうやってそんな素敵なお嫁さん候補をみつけたんですか。
親父が町内会の会長をやってて、近くにできた広銀の本店のお披露目に招待されたんです。その日は親父の代わりに母が近所の人達と見学に行ったんです。
案内係の中にひときわ可愛いお嬢さんがいて、母はこの人を良作のお嫁さんにしようって決めたらしいんです。上司の方にお願いして住所を教えてもらったそうです。後日仲人をしてくださる方と一緒に、お見合いのお願いに行ったんです。その時持参したのが、アパートの前で撮った和服の寝間着みたな格好のひどい写真で、良くあんな写真でお見合いしてもらえたなと思います。(笑)
返事はすぐにもらえましたか。
それが、なかなか返事が来ないんですよ。妻はまだ19歳で仕事が楽しくなり始めた頃だったので、結婚するのは少し早すぎると思ったそうです。それと、当時のことですから人づてに東京の勤務先や下宿の近所や、いろんなところで僕の事を調べてたらしいです。でも、どこで聞いても良い青年だよって言われたらしくって、それで安心してもらえたみたいです。まあ、実際に真面目で良い青年だったんですが。(笑)
僕も彼女に気に入ってもらいたくて、毎日手紙を書いて出しました。まだ、とってあるんじゃないかな(笑)
奥様 「毎日書いたなんて言い過ぎですよ。せいぜいこの程度…」(手を拡げながら)
その間に一回くらいはデートして、題名は思い出せませんが、映画にも行きました。緊張して手もつなげませんでしたけど。(笑)「東京はいいところだから、一度遊びにおいでよ」って言ったと思います。彼女のお母さんは娘を広島から出さないって言ってたから、「僕はそのうちこっちに戻ってくるつもりです」って答えてたんですけど。正直、広島に帰るつもりは全然なかったですね。(笑)翌年妻が二十歳になって、結婚しました。
広島に帰られてからはどうされてたんですか。
先生は三越でずっと個展をされていましたよね。
42歳の時に広島に帰って来て、日本画の教室をはじめました。一番多いときは百人くらい生徒がいました。福山にも教室があって、新幹線が開通する前は車で往復した時期もあります。広島の仲間達にも助けてもらいました。妻も広銀に復職して定年まで勤め上げてくれたんですよ。妻とみんなのおかげで画業に没頭する事ができました。
三越では9回以上個展をやって、たくさん売ってもらいましたね。(近くの絵を指差して)こんな大きな絵はスポンサーや外交員がいないと、とても売れませんから。三越ってバックボーンがあるから売れるんですよ。
先生は団体には所属されてませんよね。何か理由はありますか。
僕は一匹狼だからどこにも所属していません。団体に所属すると、その団体のために時間とか活動とかいろいろ縛られますから。代わりに団体から自分の作品を応援して貰えるメリットもあるから五分五分なんですけど。まあ、一般的には団体に所属した方が良いことの方が多いとは思いますが。
学生の時に助手達が有名な先生に紹介してもらうのに大金を要求されたとか、払ったのに入選できなかったとかぼやいているのを良く聞いていました。僕はそんなの嫌ですし、親父も一匹狼でしたから。好きな時に好きな絵を描くのが一番です。とにかく縛られるのが嫌なんですよ。
これからの目標とかテーマなどあればお聞きしたいのですが。
これから先、大好きなカープの観戦とスケッチ旅行で毎日を楽しく過ごすことです。80過ぎてから少し体調を崩した事があるんです。今は元気に過ごしていますが、正直、もう駄目かも知れないって思った事もありました。まわりには85歳まで頑張るって言ってたんですが、85歳になったから、今度は目標を100歳に変えました。
今の先生なら十分達成できそうですね。
明日から家族で石川県の方に旅行に行くんですが、妻が全部手配してくれたんですよ。お金の事とか任せっきりで何も考えた事がないんです。今回も家族旅行を考えてくれたし、本当に感謝しています。
旅行の時はいつもスケッチブックを持ち歩いて、クロッキーしています。観光旅行だけどスケッチ旅行ですね。車を運転しなくてもツアー会社がいろいろな所に連れていってくれますから。それでなぐり書きのクロッキーと、同行サポートしてくれる妻が撮った写真を参考に、帰ってから絵にするんです。
前から先生にお伺いしたかったんですけど、先生の絵って山の絵って言うか風景画をテーマにされていますよね。風景しか描かれない理由のようなものはありますか。
私は風景しか描かない風景画家です。花々なんか描いてしまうとどうしても細かいところまで似せようと描き込んでしまって、そんなことやってたら植物図鑑になってしまいますから。だから山ばかり描いています。
今も教室を持ってて10人くらいの生徒さんがいますけど、うまく描こうとせずに好きなように描きなさいと言っています。絵は真似から入るのが自然ですから、どうしても似たような自分じゃない絵を描いてしまうんです。上手・下手は二の次なのに。
でも、生徒さんにはそう教えてるのに上手に描こうとする自分がいます。本当に駄目ですね。(笑)
取材のため日本画家、横田良作さんのアトリエを訪問してきました。横田さんには支部総会のひとくち講演でご登壇いただく予定でしたが、あいにくのコロナ禍となり、それではと言う事で今回の訪問となりました。 誌面では書き切れませんでしたが、悲惨な被爆体験や結婚後の苦労話など、本当にたくさんのお話を聞かせていただきました。帰り際には、奥様が精魂込めてお手入れされている庭の美しい木々・花々をみせていただき、楽しく心地よい時間を過ごす事ができました。これからも、会報を通じて校友の貴重な体験をみなさんと共有できたらと思います。 岡崎隆一