吉野 誠 昭和31年(1956)図工二二

1933年 広島県庄原市西城町に生まれる。44年に家族で旧満州に渡り、46年に引き揚げ。武蔵美卒業後は広島県内の公立中で美術教師を務めた。
自由美術協会会員。

ひとくち講話「私が制作する作品の原点」

 私が3才か4才頃の話。姉が学校に行っている間に、姉がとても大事にしているクレヨンを引っ張り出して桃太郎の絵を描いた。

 きつく握りしめて描いたため、3〜4本折ってしまった。姉に怒られるとばかり思って怯えていたところ、絵をみた姉が「誠は本当に絵が上手だね」と褒めてくれた。これが絵に興味を持つきっかけとなった。

 終戦の前年、11才の時に役場のすすめで県北の比婆郡(庄原市)から満州開拓団の一員として家族で移り住んだ。開拓団とは名ばかりで現地の人を追い出すようなかたちでの移住だった。日本に居たときはイモばかり食べていたが、満州では米や豚肉を沢山食べる事ができた。当時は思いもしなかったが、それらの食材は現地の人々のわずかな食料を略奪したものに違いなかった。

 終戦時、村では日本人を狙った略奪や暴行が横行。当時12才の誠少年の目の前でソ連兵が女性を乱暴するなどひどいありさまだった。祖母はそれを止めに入ったため、銃床で頭が変形するほど殴られ殺された。

 母も病死し、自分の中では希望も食べるものもなく、寒く辛い日々。こんな事なら死んだ方が良いと思っていた。ある夜、満月を見上げた時に日本で別れた友の顔が浮かび自殺を思いとどまった。私がアルミで造形を行うのは、アルミが放つ光があの夜みた月と重なるからだ。本当に辛い時代だった。

当日ご持参された吉野先生の作品

 帰国後、新制中学の第一期生となった。授業で先生から新しい憲法の話を聞いたとき、「これで死ななくても良い、奪わなくても良い、殺さなくても良いんだ」とクラス中で歓声が沸き上がった日を思い出す。

 高等学校は経済的な事情から定時制高校に進学した。昼間は郵便局で働いていた。アルバイトではなく一家を養うための本業だ。外勤の方が収入が良いので配達員を選んだ。豪雪地帯のため胸まで積もる雪の中を配達した。配達員は差別される職業だったため、子どもから石を投げられた事もあった。自分の担任は美術の先生だった。大雪の日、自習の時間に水彩で雪景色を描いた。夜間高校の悲しいところで、雪景色のはずが黒く暗い風景画になってしまった。こんな絵では先生に叱られるのでは無いかとこわごわ提出すると「吉野君の気持ちが良く出ている素晴らしい絵です」と言われ驚いた。美術はただ目に見えるものだけを追うのではなく、心を表現する事。この絵はまさに吉野君の絵だと褒められた。私はこの時、絵の道に進む決心をした。

 卒業後、退職金の半分を家に入れ上京。二つのアルバイトを掛け持ちながら武蔵美の図画工作教員養成科(夜学)に入学した。油絵 井上長三郎先生、版画 棟方志功先生、彫刻 清水多嘉示先生、一般教養科目では星野 安三郎先生の憲法の講義が心に残る。

武蔵美時代の吉野先生 (生徒につけられたあだ名はベートーベン)

 美術教諭を目指すが、当時は広島大学出身者が優遇された時代で教員の採用は難しく、仕方なく松竹の美術監督の仕事をしていた。ある日、廿日市の七尾中学の校長先生から声がかかる。教員資格者名簿で「武蔵野美術学校」の文字が目にとまり、専門教育を受けた美術教員を採用したいとの事だった。クラス担任を受け持ちたかったが、校長先生からはクラブ活動に専念して欲しいと言われた。だが、これが良い方向になった。

 クラブ活動には生徒の保護者も加わり活動がどんどん拡がっていたった。当時のクラブ活動で公共施設で校外展示を行うような学校は日本でもめずらしかった。32才の時には五日市光禅寺境内に制作する原爆慰霊碑のデザインも依頼された。クラス担任を任されてからは家庭訪問の時に生徒の保護者の似顔絵をスケッチして帰った。家で着色して完成した絵をクラスの壁に貼っていくのだが、親から見られているようで困ると生徒が嫌がった。

1980年 海田中学3年1組 授業参観(吉野ルーム)

 教え子には武蔵美に入学したものや、東京藝大を卒業して武蔵美の教授になったものもいる。私は武蔵美を卒業して教員になって本当に良かった。良い師にたくさん巡り会え、これ以上の生き方は無かったと思う。

みなさんも一生懸命がんばって長生きをしましょう!

1995年 三良坂平和美術館外壁「翔べ永遠に」三良坂のひとたちと3ヶ月かけて制作した。

文責:岡崎隆一

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