峰崎まや 平成24年 (2012) 学油

ひとくち講話「Drawing My Life」

私は絵が好きという単純な理由で美大に入りました。当時の私は「美大に入る=アーティストになれる」と思い込んでいたからです。一方で放浪に憧れていたのですが、幸か不幸かストレートで武蔵美に引っかかり進学を決めました。
田舎から上京し美大に入り、やっと「美大に入る=アートと遠ざかる」と悟った私は旅をする事にしました。生のアートを五感で体感したいと。旅では全38カ国、スタンプラリーの様に様々な国を駆け巡ったのですが、その中でも、奇しくも今日の私に繋がるエピソードを一つお話しします。

大学1年のときにやるべきことが見つからずに葛藤のさなかにいた私に「ミリキタニの猫」という映画をみるようにと母がはがきで知らせてくれました。この映画はニューヨークの日系二世で路上画家のミリキタニの半生と映画監督の交流を描いたドキュメンタリー映画でした。映画自体に感動したというのはもちろんですけど映画の中で自分自身にまつわるびっくりするような事実を知ることになりました。母方の祖母は英語が話せる。と言うことは知っていました。アメリカに生まれ育ったらしいとか、英語が話せて味噌汁よりもハンバーガーとコーラが好きだと言うことは知っていたのです。明るいおばあちゃんで楽しかったんですが、映画をきっかけに自分の祖母が日系二世だったということを知ることになります。映画の中でミリキタニさんが収容されていたツールレイクという収容所が出てくるんですけれど、そのツールレイクに自分自身の祖母もしゅうようされていたと言うことを映画をきっかけに始めて知りました。それまで一言も戦時中に収容所に入れられていたことを言ったことがなく、遠い話だと思っていた映画の中の事実が祖母との共通点を通してすごく身近にリアリティを感じました。そこで思うことがありました。ミリキタニさんの作品や創作活動にインスパイアされたことと、もう一方で自分自身のルーツに興味を持つきっかけになった映画でもあります。

それが旅とどうリンクしていくかなのですが、行き当たりばったりの旅だったのですが、次に行くのはアメリカだなニューヨークだなと思っていて、アメリカで何をしようかなと考えたとき、思いつきでふとニューヨークにはミリキタニさんがいるんじゃないかな、会いたい人に会いたいな、ニューヨークでミリキタニ氏に会えるのではないの、と思ってしましました。ヨーロッパで映画のホームページを検索して、私は今、旅をしていて、祖母も日系人でと色々並び立てて、ニューヨークに行くからミリキタニさんに会いたいですとメールをしてみたんです。そしたら本当に映画監督からミリキタニさんはニューヨークにいるのでぜひ会いに来てくださいと返事が来て会いに行くことになりました。

プロデューサーは日本人の方で待ち合わせて老人ホームに入居しているミリキタニさんに会いに行きました。映画では80歳で実際に会ったときは90歳で92歳でなくなりました。映画の中では怒りを爆発させたり、アグレッシブでしたが、実際は優しい人でした。けれど制作欲は旺盛で、人の言うことは聞かない。江田島は行った事があるぞと言って軍歌を歌いだしました。ワシはこの作品をオバマに見せるんだと言ったり、好きな夢のことなど何十分も話してくれました。

絵を描きたいとムサビに入ったのに、あれは嫌だとか何とか言っていたのですが、旅をすることで何かしなきゃ何かしなきゃとあせりを感じていたりしていましたが、建物を見たり、○○を見たり、色々な人と会って、好きなことを好きでいようと思いました。自分自身のこととか、アートのこととか。旅をすることで色々なことが見えてきました。旅で学んだことは今をどう生きるのか、我ではなくて意思を持つと言うこと。意思を持つことはわがままではないと言うことを旅をとおして気づかせてもらいました。

旅から帰り、大学を卒業して江田島に帰ってきました。自分がいる場所をもう一回見つめてみよう。あせらずに自分自身を見つめようと思って、生まれ育った江田島に帰ってきました。私の旅は終わったけれど、色々な事を発見したいし、帰って5年目、自分の視点が変わったことで見えてきたもの、出会うことが違ってきています。型にこだわらないことで、自分に残っていることは絵だと思いました。江田島にはアートの土壌もなく、何もないことは分かっていたので、やれることは何でもしました。友人の結婚式のウエルカムボードだとか看板を描いてくれとか老人の肖像画とか、自分に出来ることを模索しながらやっています。かつての私は自分の創作活動と自分を認められませんでした。自分のルーツをミリキタニさんの映画から発見したことから、江田島で映画の上映会をプロデューサーにも来てもらって開催することが出来ました。自分の生まれた島で、ちょっとずつ活動しています。5月に香川やまなみ芸術祭があり、今はその制作をしています。

以上、世界を精力的に旅されてきた峯崎さんが江田島に戻って制作をされている。広島校友会にとって、とてもうれしいお話でした。

報告者 遠藤吉生(51学建)

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